プロゴルファーの素顔
芹澤信雄【中編】

全3回にわたり、これまでの履歴書を紐解きながら、その人となりに迫ってみよう。

「芹澤信雄:スキー競技からゴルフのプロへの転身」

 芹澤信雄がゴルフに本格的に取り組むようになるまでの経緯も遡っておこう。1959年11月、静岡・御殿場出身の芹澤は、ゴルフを始める前、県内屈指の競技スキーヤーとして名を馳せていた。インターハイや国体への出場経験も持っている。
「小学校4年生くらいのときに、隣のお兄ちゃんがやっていまして、行ってみないかと誘われたのがスキーのきっかけです。家の前の田んぼが冬になると凍るので、低学年のころからスケートをやったりしていたんですが、スキーをやってみたら、そのスピード感がすごく楽しくてのめり込み、じきに競技にも出るようになりました。大会に出て成績を残すのが楽しくて」
 スキーに熱中したことが、ゴルフとの出合いにも繋がっている。
「冬にお金がかかりますから、高校時代、何かアルバイトをしなければと思っていたところ、隣のおばちゃんから、『キャディが稼げるよ』と教えてもらいました。御殿場は、ゴルフ場もいっぱいありますからね。日曜日と夏休みにできればと思っていて、夏休みにずっと使ってくれるコースだったのが、僕が育った富士平原ゴルフクラブでした」
 ただし、芹澤の気持ちがすぐに、スキーからゴルフへと向かったわけではない。ご多分に漏れず、芹澤の頭には、「ゴルフ=おじさんのスポーツ」というイメージが刷り込まれていた。
「興味はまったくありませんでした。あくまでも、『資金源』という感じで(笑)。それで、高校3年間、毎週日曜日と夏休み、春休みは、ずっとキャディをやっていました」
 転機が訪れたのは、進路を考える高校3年の夏ごろだった。芹澤は、大学に行ってスキーを続けたいと思っていた。
「静岡は雪なし県ですから、スキーは毎週、長野の八方尾根とか岩岳とか、白馬のほうのスキー場に地元のスキークラブの人に連れていってもらって滑っていました。でも、そんな状況ですから、静岡でナンバー1といっても、全国に行けば大した選手じゃないわけです。だから大学に行って、雪国の人たちと同じだけ滑ることができれば、もっとうまくなるんじゃないかと。でも、両親には、『スキーのために大学に行くんじゃねえ』と言われました。それに、3人きょうだいの末っ子で、上は誰も大学に行っていませんから、『お前だけ行ってもしようがない』と。そうやって、やるべきことがなくなってしまったときに、たまたま、『ゴルフをやってみないか』と声をかけてくれたのが、富士平原ゴルフクラブの所属プロでした。そのときも僕は、『ゴルフっすか?』という感じで、別に乗り気ではなかったんですけどね」
 高校3年の9月、芹澤は富士平原ゴルフクラブの所属プロから、「キャディの仕事が終わったらハーフ回るか」と言われ、初めてゴルフボールを打った。見ているのと、実際に自分でやるのとでは、まったく勝手が違ったという。
「楽しいとかよりも、とにかく当たらなくてびっくりしました。キャディとしてお客さんのプレーを見ていて、『なんでこんなに曲がるんだ?』とか、『30cmしかないパットを、なぜ外すのか?』と思っていたんですが、自分もやってみたら30cmは外れるし、ボールは曲がるし。ゴルフって難しいんだなと思いましたね」
 その難しさが、「おじさんのスポーツ」という認識だった芹澤に火をつけた。 「難しいから、余計やりたくなる。思うようにいかないことに魅力を感じて、ゴルフをやってみたいと思うようになりました。9月の終わりぐらいから、学校に行く前にゴルフ場に行って練習して、夕方も学校が終わったら、またゴルフ場に行って練習という生活が始まったんです」
 のちにプロとして幾度も優勝を果たしたのだから当然だが、やはり芹澤には才能があったということだろう。高校3年生の秋から熱心にゴルフに取り組みはじめた芹澤に対して、所属プロからは、「年内にハーフ30台を出せ」という無茶なノルマが課されていたそうだが、芹澤はそれを見事にクリアしてみせた。
「30台というのが、どれだけ難しいかも知らないで、言われたことに『はい』って言っちゃったんですよね(笑)。でも、僕はゴルフを知らなかったから、毎日新鮮じゃないですか。プロにも親切に教えてもらいましたし、やればやるほどうまくなっていきますから、楽しくて。それで、本当に30台が出てしまったんですよね。その時点で、『俺もプロになろうかな』という感じになっちゃいました」
 翌年の春、高校を卒業した芹澤は富士平原ゴルフクラブに入社し、キャディやコース管理の仕事をしながら練習に明け暮れた。20歳のときには、プロテストを受けるレベルまでになり、23歳になる年の春、4度目のテストで見事、プロゴルファーの肩書を手に入れた。
「親のすねをかじって大学に行き、何もなかったよりは、一応、プロとなったわけですから、ゴルフをやって良かったなと思いましたね。こんな選手になれるとは夢にも思っていませんでしたから、プロテストに受かっただけで感動していました」(文中敬称略)