プロゴルファーの素顔 芹澤信雄【前編】

全3回にわたり、これまでの履歴書を紐解きながら、その人となりに迫ってみよう。

「芹澤信雄:1980年代から1990年代のプロゴルフ界を彩った輝かしいキャリアと影響力」

 1980年代後半から1990年代にかけて、もっとも名が知れていたプロゴルファーといえば、みなさん、誰のことを思い浮かべるだろうか。もちろん、AON(青木功、尾崎将司、中嶋常幸)をはじめとして複数の人物が挙がるのだろうが、そのリストのなかで芹澤信雄の名はかなりの上位にランクされるはずだ。  今年11月に64歳を迎える芹澤が、当時とそれほど変わらない、若々しい笑顔も交えながら、しみじみと語る。
「実際にやっていたときよりも、いまのほうが自分を褒めたいという気持ちになってきていますね。お前、よくやってたなと。自分のゴルフで5勝もできたことはすごいなと思いますし、まったく素人で始めて、こうやってゴルフ界に少し名前が残っただけでも良かったなという気持ちがあります」
 いや、少しどころではない。後に説明するが、優れた戦績もさることながら、他の人にはないような影響力を発揮したという意味で、芹澤は稀有な存在でもある。1989年には、スポーツ・芸能部門においてベストドレッサー賞にも輝いている。
 芹澤がプロゴルファーになったのは1982年、23歳のとき。プロとして、すぐにツアーで芽が出たわけではない。「少しずつ推薦をいただいたりして試合に出ていましたが、予選を通らないし、大丈夫かなと思っていました」という状態がしばらく続いた。
ただ、芹澤は明るいイメージのとおり、ポジティブな思考の持ち主だった。
「そのころ、太平洋クラブ御殿場コースで行われている試合(現三井住友VISA太平洋マスターズ)を観たんですね。僕にとっては地元ですし、『ああ、こんなすごい大会に出られたらいいな』と思って、それを目標にただひたすら練習していた気がします。プロとして稼げる、稼げないじゃなくて、ただ出たいという気持ちでやっていたんですね。まずプロになることが目標で、実際にプロになって、今度はこういう試合に出てみたいなと。そうやって階段を1つずつ上がってきた感じですね」
 そのころ憧れていたプレーヤーは、中嶋常幸。
「中嶋さんといえば、まるでサイボーグのように、タイヤを引っ張ったり、シャワー室で雨を想定した練習をしたり、いろいろなトレーニングをしているのがテレビなどでも流されていて、『この人、すごいな』と思ったんですよね。ジャンボ(尾崎将司)さんと青木(功)さんは、年齢的にもかなり上で、中嶋さんのほうが身近な感じでもありました。それでなんとなく憧れて、スイングに関しても、雑誌に出た記事は全部切り抜いて、ファイルにしていましたよ」
 その憧れの選手と一緒にプレーする機会は、早々に訪れた。「25歳のときだったかな」と、芹澤は振り返る。
「実際に初めてプレーしたときは、めちゃくちゃ感動しました。ブリヂストンオープンの練習日に、コースへ1人で行ったとき、藤木三郎さんから、『練習ラウンドやるか』と誘われて、お願いしますと答えたら、横に中嶋さんがいらして。『え、ええー!』ってなりましたよ。練習ラウンドなのに、試合よりも緊張しました(笑)」
 その後、徐々に力を伸ばしていった芹澤は、1987年の日経カップ中村寅吉メモリアルでツアー初優勝を飾ると、トッププレーヤーの1人に数えられる存在となっていった。尾崎将司から、「世界一、パーパットのうまい男」と称賛されたことも、ずっと語りつづけられている逸話だ。
「いちばん思い出に残っているのは、2000年に40歳で勝った東建コーポレーションカップですかね。もうトーナメントでは優勝できないだろうなという感覚でいましたから。最後に1.5mのパットを入れたら優勝だったんですが、自分でどう打ったか、記憶にないんですよ。真っ白になるって、よく言うじゃないですか。そういう状態に初めてなりました。入れたときは派手にガッツポーズしたかったんですけど、崩れ落ちてました(笑)。最後の優勝だから、なんでもっとカッコ良く終わらなかったんだろうって思いますけどね」
 この優勝を含め、芹澤はレギュラーツアーで計5勝を挙げたが、なかでもいちばんのタイトルといえば、当時の国内メジャーの1つであった日本プロゴルフマッチプレー選手権プロミス杯(1996年)。しかし、芹澤にとっては、少し苦い記憶でもあるという。自虐的な表現も交えながら、その理由を明かしてくれた。
「マッチプレーの優勝は大きかったんですけど、僕にとっては、5年間というシードが油断になっちゃったんですよね。それまで毎年、シーズンをスタートするときに、シードを取ろうという目標を立てていたのですが、36歳でメジャーに勝って、急に、『やりたいことがあったんだよな』となったんです。もっと飛距離を出したいといってスイング改造をしたり、アメリカツアーのQTも受けたり、いろいろ考えてしまったんですね。5年間のシードをもらったことで、ちょっと自分の夢を叶えようとしたばっかりに、自分を見失いました。だから、マッチプレーの勝利が良かったのか悪かったのか、よくわかりません。5年シードは、僕みたいに本当の実力がない者をダメにするなと(笑)」(文中敬称略)